今月の言葉

極楽は
西にもあらで
東にも
北(来た)道さがせ
南(みな身)にあり
   一休禅師 詠
 
今の自分は 本当の自分ではなく
本当の自分は別にいる
と思っておられる方も
あると思いますが
今の自分こそが
本当の自分です
          竹中智秀

今月の言葉

極楽は
西にもあらで
東にも
北(来た)道さがせ
南(みな身)にあり
   一休禅師 詠
 
今の自分は 本当の自分ではなく
本当の自分は別にいる
と思っておられる方も
あると思いますが
今の自分こそが
本当の自分です
          竹中智秀

報恩講法話

法話 2

白川良行師 (2022・11・3)

 お葬儀の後、中陰 (ちゅういん)法要を勤めますが、お他宗と浄土真宗ではその意味合いがだいぶ違うのです。
亡くなった日から数えて七日目が初七日で、七日ごと二七日三七日 (ふたなのか、みなのか)と続いて、七七日(四十九日)で満中陰 (まんちゅういん)法要となります。中陰というは中有思想から来ていて、真ん中に有るですから宙ぶらりんということで、極楽浄土か地獄に行くのか決まっていないという考え方です。
その思想から次のように意味づけされているようです。人間というのは罪深いから往生のために修行をしなければ地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの迷いの世界から抜け出せないこれを六道輪廻 (ろくどうりんね)といいます。
 
地獄 自分の思い通りにならない世界です。
餓鬼 貪りの世界です。物だけでなく愛・心
   の貪りも同様です。
畜生 傍生(ぼうしょう)とも訳す。傍らを生き
   るだから、主体的に生きられないこと。
修羅 争いの世界。兄弟喧嘩、夫婦喧嘩。
   戦争が止むことがない。
人  地獄、餓鬼、畜生、修羅を抱えて覚りの
   世界に行けず、悩み苦しみの世界。
天  有頂天というのがある。自分だけ良けれ
   ばいいという世界のひとは天人です。
 それから、声聞・縁覚という修行の道に入り、そこから成仏に進んでいくと説いておられます。六道を生きているときに罪深いことをしたから、初七日の一回だけの修行ではだめで、七回それを繰り返さないと亡くなられた方は成仏しないんですよ、という言い方をされているようです。追善供養 (ついぜんくよう)と言いますね。後から善いことをして極楽に送りたいという考えでしょう。
 
浄土真宗の教えは、後からから修行をせずとも直ちに成仏させていただく、浄土に生まれさせていただくという教えです。
では、私たちは、初七日とか四十九日をどういう意味合いで勤めさせていただくのかでしょうか。
六道から脱するので七という数字で表されているのです。ですからお釈迦さまがお生まれになった時、七歩歩んで右手を天、左手を地に指し「天上天下唯我独尊」 (てんじょうてんげゆいがどくそん)と言われたと伝えられていますが、比喩的表現を使って、この方は成人して六道輪廻を断ち切り、必ず覚りの世界へ導く教えを説くことになる、という事を表されているのです。大切な事を伝えるときは物語として神話的表現になるのですね。

 亡くなられた方から、私たちが六道輪廻に陥っているのではないか?どうなんだと問いかけられているのです。そして、できるならば早く一歩踏み出し、七歩目を歩んで進んで行きなさい。そういう宿題と願いが私たちにかけられている、ということに気付かせていただくことなのだと、初七日を始め満中陰のお勤めの意味合いを門徒さんにお伝えさせていただいています。
 私たちの浄土真宗は、亡くなられた方から私たちを照らして迷いの世界を繰り返していることに気づかせていただくというのが、法事を勤める大切な意味合いだと思います。
 つまり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道とは、私達がどのようなものとして生きているかを教える言葉なのです。
 
礼儀作法の本などには通夜、葬儀の時のお包みは「御霊前」と書き、四十九日過ぎていたら成仏しているから「御仏前」書きますと記されています。しかし、浄土真宗は直ちに浄土往生ですから「御香資」、お香典としてお包みをいたします。 御霊前、御仏前という使い分けはしません。
 報恩講も、親鸞聖人が伝えてくださったことをどのように受け止めさせていただくか、受け止めきれなければ、どうしてなんだろうというクエスチョンを持ちながら生活をするということに、目覚めさせていただくということなのかもしれません。

 
 先程『正信偈』 (しょうしんげ)をご一緒にお勤めをしました。途中ご住職が調声をするところは「善導独明仏正意」 (ぜんどうどくみょうぶっしょうい)というお言葉でしたね。
 
 善導大師は中国の唐の時代の方です。『観経疏』 (かんぎょうしょ)という『観無量寿経』というお経の解説書を作られ、「経教 (きょうきょう)はこれを喩 (たと)ふるに鏡の如し」というお言葉を序文においています。お釈迦さまが教えてくださっているその教えというものは、鏡のようだと言われます。
 鏡の機能は「映す」ことですから、何を映すのかというと私たちのあり方です。私たちは自分の目で自分の目を見ることはできないし、背中も見ることはできません。
私の心の中とか、私の存在の真実もしっかりとは見えないですね。色眼鏡で見たり、言い訳したり、事実から目をそらそうとしますが、鏡はそれをバッチリと映し出します。鏡に映された事実をしっかり見なさい。それをどう受け取るかというのは、こちらの問題ですよということです。
 
 私でしたら、若い時父に反発していたけど、父と同じ住職になってみて、こういうことを住職として願っていたのかなと今は思えます。
母が私の小さいときのことを話してくれるときの嬉しそうな顔を思い出します。亡くなった友人とは酒を酌み交わして激論になったり、羨ましく思っていたなとか、そんなことが蘇って来ます。
 亡き方は私たちの本当の相 (すがた)を映してくださる鏡(教え)を大切にして、今後どういう生き方をしたらいいのか、課題と宿題と願いをかけてくださって、これからの私たちの歩みに光を当ててくださる。そうした存在として、亡くなった方はいらっしゃるんじゃないかと思うのです。
ですから人間というものは亡くなってから、却って関係性が濃く迫ってくるのではないですか。
 私たちはそのように亡くなられた方を見たときに、亡くなられた方は私たちに真実を教えてくださっている存在なんだと知らされてきます。
 真実を教えてくださるという意味は、お釈迦さまが真理を作ったわけではなく、お釈迦さまは真理(法)に目覚めた人(仏陀)なのです。真理に目覚めて、それを教えとして言葉にしてくださった。その教えを七高僧の方々や親鸞聖人、それを受け継いでくださっている先生方を通して学ばさせていただくのです。
 
 料理で譬えるとするとお釈迦さまが料理をしてくださった仏教という教えを、七高僧の方々、親鸞聖人がウェイターとして私たちのところに届けてくださっている。また亡くなられた方も諸仏として、教えを私たちのところに運んでくださっている、そういう存在だと気付かせていただければ、大きな存在として私たちの上に息づいてくださる。
 そうしたことを思えば、亡き方への報恩感謝は大切なものではないかと思うことです。 

慶讃法要中「御影堂門」の歓迎花(池坊家元)


 親鸞さまは、私のところにまでその料理を運んでくださって「こういう教えがありますよ」「お釈迦さまはこう教えてくださっていますよ」
と呼びかけ続けて下さいます。それを「私」が気づき、ありがたく受け取れるかどうか。
それを糧に一日一日の歩みの中で確認させていただく、それが私にとっての報恩講なのです。教えを生きる上での糧として欲しいと「私」に願いをかけられているのです。
 皆さん方も今、亡くなられた方を思い出しながら、私に大事な教えを伝えてくださっているんだな、ということが一つでもあれば、そのことを大切にしていただければと思います。(完)