あるご法話の席でお聞きした話

 

肉眼は他の非が見える。
仏眼は自己の非に目覚める  
     川瀬和敬(真宗高田派勧学)

あるご法話の席でお聞きした話。

いつも熱心にご法話に足を運ぶご婦人がそのご法座のあとで、礼を述べに控室に来られ「大変素晴らしいお話をありがとうございます。嫁に聞かせてやりたいと思います」といわれたそうです。そのお嫁さんもご法話を聴聞されていました。ご接待係りを頼まれてご講師にお茶を運んで来られました。「今日のお話、さぞかしお姑(かあ)さんは耳が痛かったろうと思います」と語られたそうです。
 せっかく仏法を聴聞しても、聞き方を間違えると他を非難する、攻撃する武器としてしまう。
(私は聞いているけどあの人は、とか)
 
 親鸞聖人が師と仰いだ法然様は
 「松影の暗きは月の光かな」
と詠じられた。
 真っ暗闇では松がそこに立っていることも、暗い影をひいていることも見えません。
光が弱ければ影も薄く、光が明るくなるほどに影は黒々と浮かび上がります。私の中の非なるものに気づかせていただけるのは、私を常に照らしてくださる阿弥陀仏の光のお陰。
「罪悪深重」 「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」
           『歎異抄』第二条
(どのような行も満足に修めることのできない私には、どうしても地獄以外に住み家はないからです)と言われた阿弥陀如来の光明に照らされ深くうなずかれた親鸞聖人の自覚のお言葉といただいたことです。
 
 「宗教」とは神やほとけを自分の向こうに置いて、自分の願いを神ほとけに託することだと一般には受け止められています。
 自分の願いはどこまでいっても、どれほど真面目であろうと、自我の延長でしかなく、自分の都合でしかありません。ですから、自分の都合を頼んでいるのだから成就することはありません。そうなると次に口に出るのは「(これだけ一生懸命拝んでいるのに、)神も仏もあるもんか!」でしょう。
 たとえ、ひとつの願いが叶ったとしても、人間はすぐそれを「当たり前」としてしまいます。「これさえ手に入れば」「この病気さえ治れば」とどれだけ真摯に願っていても、ひとつ叶っても次から次と欲求が出てきます。皆さんはどうですか?
 叶わなくなると今度はあっち次はこっちと、願いを聞いてくれそうな宗教を渡り歩くようになります。そのようなことが「信仰」だとするならば、神や仏は自分の都合のいいようにする奴隷かのごとく扱っていることに気づくこともないのでしょう。「俺の言うとおりにしろよ」と言うことになりませんか?
 怖いのは、それを「信心が足りない」と追い詰めていく形態です。罪を消すには壺を買いなさいと次々と献金を強いられている多くの方がいらっしゃることは昨今よく報道されています。