門徒さんを訪ねて

 

西光寺のご門徒さんは、当然ながら様々な方々がいらっしゃいます。
門徒とは、親鸞聖人のご縁をいただいき、お念仏の教えを聞いていこうと、「教えの門をくぐる生徒」という意味です。本来の意味は僧侶も含まれております。
お内仏(仏壇)をお給仕されている門徒さんの生活の現場、お仕事を通して、こんな近くにも西光寺の門徒さんが居らっしゃるんだ−と感じていただければ有り難いです。
そんなことで始めてみます。

今月の言葉

極楽は
西にもあらで
東にも
北(来た)道さがせ
南(みな身)にあり
   一休禅師 詠
 
今の自分は 本当の自分ではなく
本当の自分は別にいる
と思っておられる方も
あると思いますが
今の自分こそが
本当の自分です
          竹中智秀

今月の言葉

極楽は
西にもあらで
東にも
北(来た)道さがせ
南(みな身)にあり
   一休禅師 詠
 
今の自分は 本当の自分ではなく
本当の自分は別にいる
と思っておられる方も
あると思いますが
今の自分こそが
本当の自分です
          竹中智秀

第一回目は川口市の長谷川浩志さんです。

 

 お寺の記録では、昭和8(1933)年4月に祖父にあたる長谷川庄吉さんがお墓を建てかえられたとあります。関東大震災後に東京市の区画整理が大規模にあり、西光寺の境内地も墓地の区画も現在の姿となりました。その際建て替えられたのだと思われます。近代になっても、震災・戦災で二度類焼していますので記録が残っていないのです。

 ※余談ながら、昭和26年に先々代が亡くなり、14年ぶりに(昭和40年)住職として入寺した先代住職は、時の総代さんから過去帳一冊のみ手渡され、門徒さんの名簿等何もなく、一軒一軒お話をうかがって台帳を整理していったことでした。

 戦後直ぐ、庄吉さんが56歳で亡くなってから浩志さんの父、栄介さんが継承され、昭和54(1979)年5月には、以前の本堂落慶記念として「萌黄色雲牡丹紋五条袈裟」を、昭和62(1987)年2月の母親トキイさんの二十七回忌には座布団をご寄進いただきました。
栄介さんが川口で「一休庵」という蕎麦屋を経営されていた関係か浩志さんは日本料理を目指します。高校卒業後大阪の辻調理師専門学校に学ばれ、心斎橋の「大和屋」、京都「下鴨茶寮」でそれぞれ3年間修行されました。
東京に戻り、当時三田にあったミシュラン二つ星の「菱沼」を経て、銀座「青山」で板長・店長として5年間腕を奮ってから、20年前に独立されました。
「賀茂川」と言う屋号は父栄介さんが名づけ、ご本人は「他に考えていたんですが、父の思いをくんで名づけました」と語ってくれました。
長谷川さんご夫婦
「賀茂川」さん 入口
落ち着いた店内です

銀座時代に結婚され、「住職、聞いてください。プロポーズの言葉は“一生専業主婦でいいぞ”だったたんですよー」、と言いながらも節子さんはにこやかにお客さんの対応をされていたのが印象的でした。力を合わせ、支えあってお店を切り盛りし、家庭を築いている姿がにじみ出ていました。
 お店が休みの月曜日は、川口市の料理教室の講師を頼まれたり、また、四条流包丁儀式である「逢来之鯉」を行ったりと多忙な日々を送られているそうです。この道を確かに歩んでいらっしゃる姿勢が清々しく感じられます。
 季節のコース料理をいただいたのですが、どのお料理も丁寧に仕事がなされ、また「京料理」というと小さな器で少量と想像される方もまだ多いようですが、お料理によって皿の数々が、メリハリのある全体の流れを形つくっていました。関東の人にも受け入れられるよう味付けに多少アレンジされているのかなと感じました。
 お酒も「〆張鶴」「八海山」「あさびらき」等お料理にあわせて選ばれたものが用意されています。節子さんの郷里の宮崎牛を使ったお料理も評判だということですが、それは次回のお楽しみということで、千鳥足で寺に戻ってきたことでした。 
そうそう、「私も西光寺の門徒です」というと特典があるそうです。お気軽にお声をかけてくださいとのことでした。川口駅西口から徒歩2分でそのままお店の前につきます。
インターネットでは「川口 賀茂川」で検索して下さい、詳しい情報を見ることができます。
 

四季の味 日本料理 賀茂川
川口市川口3丁目2番 リプレ川口 一番街4棟2階
電話 048-258-8866

四条流包丁儀式
取材中です
お店は、リプレ川口一番街2Fです

第二回目は品川区の福田忠さん・俊子さんご夫妻です。

 

 お父上の房蔵さんの時代から、西光寺の総代をつとめていただいています。
房蔵さんは明治32年に、今のJR鳥取駅から千代川を8キロほど遡った鳥取市倭文(ひとり)に生まれられ、17歳で上京。印刷屋さんで仕事をはじめられましたが、縁あって履物を商うようになり、目黒や白金三光町で履物屋を営んでいました。同郷の行野さんと結婚され四男二女に恵まれましたが、戦争前にご次男を十歳で亡くされました。
 鳥取も仏縁の篤い地でありますが、そのようなこともあり、教えにふれる事となったようです。私が子供の頃、房蔵さんはほぼ毎週お寺に来られていたのではないでしょうか。
 また、残念ながら宗派から離脱してしまいましたが、浅草別院(東京本願寺)でもお世話人をされていて、婦人部の人気者だったとか。
 三男の忠さんは中央大学を卒業後、主に営業の仕事をされ、現在も保険のお仕事をされています。房蔵さんの後を受け総代さんに就任いただきました。
 平成になってから西光寺の本堂が手抜き工事により老朽化が進んだことを受け、建築委員会を立ち上げました。建築委員としてもご尽力いただき、平成8年に無事に落慶法要を勤めることができました。
 本堂ができたからにはお寺の教化活動を充実させようと、お寺としても取り組んできましたが。本多雅人蓮光寺住職に永代経の講師として来ていただくようになり、そのようなことがいくつか重なるご縁をいただくこととなり、平成10年蓮如上人500回御遠忌事業の推進員要請講座を「いのちのふれあいゼミナール」とし行ったわけですが、そこで大きなきっかけとなり、門徒会にも参加され、東京2組の多くの方々(同朋)と本山で帰敬式(おかみそり)を受け、仏弟子として法名を「釋宣忠」と名告ることによって、これまで以上に聞法の大切さを行動で示してくださっています。

福田さんご夫妻

 保険業界の研修会に本多雅人氏を講師として招聘し、大きな反響があったと嬉しそうに語っている姿を見ると、仏教の教えは特別な人が聞くのではなく、同じく苦悩を生きる人に響くのだということがよくわかります。
福田 忠 俊子さん ご夫妻東京2組門徒会副会長を二期務め、現在会長も二期目となりました。西光寺にとっても東京2組にとっても重責を担っていただき、他のお寺の門徒さんとも深い交流が進んできたのも福田さんの人徳でありましょう。
 とりわけ、西光寺での聞法会(偶数月第三土曜日)のあと、また、「いのちのふれあいゼミナール」での懇親会ではなくてはならない方であります。
 お内仏(仏壇)は三十代の立派のものです。お給仕はこれで良いと思いますが、スペースの問題もあるのですが、「三具足」(鶴亀の燭台、香炉、華瓶)が揃うと尚良いでしょう。

福田家お内仏
三具足

第三回目は台東区の五十嵐様ご家族

 

 平成二十四年一月に還浄された喜代一さんのご両親が新潟のご出身で、私が本山勤務の時の上司であった新潟のご住職から御紹介があって、春秋のお彼岸、お盆にご自宅のお内仏(お仏壇)にお参りさせていただくご縁となりました。
 戦火をくぐって大事なご本尊を大切に相続されてきたというお宅です。ご法事の時には皆さん大きな声で『正信偈』を一緒にお勤めいたします。亡くなった喜代一さんのご姉弟にお聞きすると、「朝、一緒に阿弥陀さんの前でお勤めしないと、ご飯を食べさせてもらえなかったのよ」。たしかに、お家の中で親から子に、手を合せること、教えを聞くことの大切さが伝えられてきた長い歴史があったのですね。皆さんのお宅はどうですか?お伝えいただいてますか?
ご長男のご家族と一緒にお勤めしました。
お内仏でもっとも大切なご本尊が正しく安置されています。
 五十嵐喜代一さんは、先祖から大切に受け継いできたご本尊が震災や戦争をくぐり抜ける中で、かなり傷んできたことにとても心を痛めておられ、できればご修復をしてとお考えでした。しかし、傷みが進んでいて修復は難しいと判断されても、新しく本山(京都・東本願寺)からお受けすることをなかなか決断出来ませんでした。
 そこで、「本尊」は「本当に尊い もの 」ではなく、「本当に尊い事を示してくださるハタラキ」ですから、と申しあげました。それで、永年ご安置して傷んだ御絵像に感謝して、新しくお迎えする決心がついた、と晴れやかなお顔でお話いただいたことが思い出されます。
(お内仏は亡くなった方の入れ物ではなく、本当尊い事を教えてくださる阿弥陀さまを安置するプチお寺なのです)
一家に必ずご本尊をおむかえしましょう
真宗の信心の篤い地域では、子が独立するときにご本尊をもたせるということが伝わっています。「家の中心であるお内仏のない家は人の住む家とはいえない。犬小屋と一緒だ」とも言われてきたようです。子供さんのご家庭にもぜひお迎えください。
住宅事情も有りますから、写真のようなお厨子型のお内仏が本山で用意されています。
お気軽におたずねください。